最終更新日:2023.4.4
こんにちは!
さて!
2020年2月からスタートしたスタッフブログも3年目を迎え
今回でとうとう100回目となりましたーー!!!
ここまで連載を続けてこれたのも
いつも読んでくださっている皆様のおかげです。
本当にありがとうございます。
今回は100回記念ということで
いつもとはちょっと違った、特別な内容をお届けしたいと思います。
1958年4月の創業から65年間、弊社と共に歩んでこられた、銀一株式会社 丹羽武彦会長に
銀一という会社の歴史、ご自身の思い入れ、お客様であるカメラマンさんとの出会いなど
今しか聞けないお話しをたっぷりと伺ってきました!
今回は、こちらのインタビューをぜひお楽しみください♪
<目次>
・銀一と共に見る戦後の写真業界
・銀一の発展と、今の銀一へ続く道
・時代の流れと共に変わる『銀一』
・商売とは何か。銀一を続けてくる上で大切にしてきたこと。
*銀一と共に見る戦後の写真業界
今回お話しを伺う丹羽会長は先代社長の弟さんであり、
創業時から兄弟で銀一を支え続けてこられました。
そんな会長に、まずは銀一を創業した経緯を伺いました。
ーー”銀一”は創業当初『銀一カメラ』という名前でした。創業はどの様な流れではじまったのでしょうか?
先代の社長である丹羽壽彦は、
元々とてもとてもカメラが好きな少年だったんだよね。
東京の電気系の高等学校に進んだ後、一度は一般企業に勤めたものの、
写真への情熱から、現在も東京銀座に店舗を構えるスキヤカメラ※1さんで働き始めたんだ。
一時期、当時では珍しい英語の専門学校に通っていた経緯から、
英語を話せるスタッフとして当時の会長さんに可愛がってもらってね、
スキヤカメラさんが所有する、外国人を始めとした要人のためのマンションの管理人をしていたんだよ。
そんなスキヤカメラさんでお世話になる日々が過ぎたころに、
知り合いのカメラ修理店の場所がビルに建て替えになって、場所があるから、そこでカメラ屋をやらないか。という話をもらってね。
自分でお店をするのは初めてだし、一人じゃ心許ないからということで
同じく電気系の高等学校を卒業後、双葉電子※2さんで働いていた私に、一緒にやろう!と声が掛かって。
それで2人で始めたのが『銀一カメラ』だったんだ。
※1 スキヤカメラ
1929年創業 老舗のカメラショップ。現在も中古カメラを中心に銀座に店舗を構える。
※2 双葉電子
国内大手の蛍光表示管(VFD)製造メーカー。当時は真空管事業が主要。
(2020年1月 カンボジア・シェムリアップにて撮影)
ーーなぜ”銀一”という名前にしたのか、由来を教えていただけますか?
当時は銀座通りにもたくさんのカメラ屋さんがあってね。
その中で創業したお店の場所が銀座一丁目だったから『銀一』にしたんだ。
そのあと、銀座で一番のお店にしたい。という気持ちも込められていたしね。
ーーなるほど!創業当時は戦後復興から一転、高度経済成長期の真っ只中だったと思います。
どういったものを販売していたのでしょうか?
もちろん当時はフィルムカメラの時代だけど
実はアマチュア・プロを問わずカメラの需要はすごく高かったんだ。
でも、まだまだモノが貴重で高価な時代でね。
ちょうど定番だったネオパンSS※3のあと、ネオパンSSSが発売されたり、Kodakのフィルムなど、
種類は色々あったんだけど、どれも当時はすごくすごく貴重で値段も高かった。
特にKodakのフィルムは海外製だからすごく高かったし、ネオパンも主な流通先が新聞社で、一般の市場に降りてくることはまず無いような、すごく珍しいモノでね。手に入らなかったんだ。
それでも、なんとか手に入れる方法はないかと探していたら、先代社長が、米軍が期限切れで放出品として出していた、映画用のTry-Xを100ftや
1000ftなどの大きな缶を仕入れてきて
それをコツコツと、私が暗室でパトローネ※4に入れ替えて販売してたんだ。
そういうのを聞きつけたプロの広告カメラマン達が、
こぞって銀一に買いに来てくれた、というのがうちの商売の始まりだね。
※3 ネオパンSS
1952年(昭和27年)4月発売。ラチチュード(露光寛容度)の幅が広く、豊かな階調と優れた微粒子特性を兼ね備えており、アマチュアカメラマンだけでなく、報道、人物、記録写真などを撮影するプロフェッショナルユーザーにも愛用された。その後感度が上がったネオパンSSSなどが次々と発売された。 FUJIFILM HPより
※4 パトローネ
写真機にフィルムをそのまま装填できる円筒形の容器である。とくに写真用35mmフィルム(135フィルム)用のものを指し、カートリッジ式(カセット式)のロールフィルム全般の容器を指す。wikipediaより
ーーなかなか手に入らないものを売ってることで、プロカメラマンが集まり、自然と『プロショップ』になっていったんですね!
その他にも、この流れで知り合ったカメラマンが海外に撮影にいくことがあってね。
海外の撮影自体が当時はすごく珍しい事だったから、そこで日本になかなか入ってこなかった
リンホフやジナーなどを買ってきてもらって、それをうちが買い付けて、
そのカメラマンはまたそのお金を元手に撮影にいく...みたいなこともあったね。
今じゃ考えられないけどね(笑)。
そういう経緯も含めて、海外の製品を販売していくうちにシートフィルムなどの、色々な海外のフィルムを取り扱う様になったんだ。
当時35mmを使っていたのは報道系のカメラマンばかりでね。
広告カメラマンは中判・大判カメラを使うようになっていった。
そうして、”大型カメラ”の銀一になっていったんだ。
*銀一の発展と、今の銀一へ続く道
この様に戦後急速に発展していく世の中で創業された銀一は、
社員である私でも知らない歴史がたくさんありました。
ここからは、どのようにして銀一が現在の形になっていったのか。
そのお話を伺いました。
ーー現在の銀一はカメラ機材の販売はもちろんですが、機材レンタルであったり、輸入代理店としての銀一もあります。どういった経緯からこのような事業に発展していったのでしょうか?
まずは、輸入代理店の部分からかな。
当時、銀一は『ドライマウント』を別の会社から買って販売をしていたんだけど…知っているかな?
写真と台紙の間にシートを挟み、熱で圧着させてパネルにする機械なんだけど。
(ドライマウントを販売していた当時のカタログ)
ーーもちろんです!学校※5で使いました!
そのドライマウントの代理店をしていた会社から一手販売を銀一に引き継ぐ。というタイミングで、
別の会社さんから一緒に代理店を引き継がないか。と声をかけてもらった事が
銀一の輸入代理店業の一番最初だね。
そうやって、まずはドライマウントで始まった代理店業だけど、
続けていくうちに先代がだんだんと色々なものを買い付けしてくる様になって。
その頃に始めた輸入代理ブランドの中で、一番最初にすごくはじけたブランドが”TENBA”と”ダストオフ”かな?
ダストオフは、爆発的に売れたんだけど、フロンガスを使っていた商品だったので、販売できなくなってしまったんだけれどね。
※5 筆者は写真学校出身です。
ーーTENBA!今は、エツミさんが代理店をされていますね。
そう。日本で最初の代理店は銀一だったんだ。
当時のカメラバッグといえばアルミ製のでっかくて重たいものか、革のものなどしかなかったんだよね。
そんな中でTENBAのアメリカ本国初代社長が、自身が元々山岳カメラマンだったということもあり、当時は最新の生地だった、”コーデュラナイロン”※6を使ったカメラバッグを作ったんだ。
それを、先代が見つけてきたんだけど、
まず布製のバッグなんて見たことがないから、最初は全く人気がなくてねぇ。
しかも、すごく高かったんだよ!!
当時の値段で3万6500円だったかな。
安心感のない布のバッグにこんな値段を出す価値が、私たちにもわからなくてね。
そこで、知り合いの鞄屋さんにバッグを渡して、
バラしていいから、とにかくどこが良いのか見てほしい!と頼んだんだ。
それで詳しく見てもらったら
「こんなに良くできた布のバッグは見たことがない。この生地に、この製鞄で、これだけ手間をかけて作っていたら、この値段ですら安い!!」と言ってくれたんだ。
※6 コーデュラナイロン
コーデュラ(R)とは、インビスタ社の登録商標。通常のナイロンの7倍もの強度を持つ耐久性に優れた繊維で、 高機能の衣服、用具、ワークウェアに使われる「丈夫な素材」。
(TENBA初期のP-500シリーズ。手前水色はハッセルとのコラボ品。奥オレンジ色は20th記念で限定100個で発売した復刻モデル)
それでTENBAを始めることを決心したんだよね。
でも最初は代理店ではなくて、単純に海外で買い付けをして、それを日本で売っていただけだから、
向こうで100ドルのものも日本では300ドル以上の値段にしないといけなくなってしまう。
そこで、自社で輸入貿易として始めることにしたんだ。
その後、他の商社と代理店をめぐり競争になることもあったけど、
先代の熱意に向こうの社長も乗ってくれてね。
…テレックスって知ってるかい?
ーーいや...すみません。知らないです!
今で言う、電話でするチャットみたいなモノなんだけどね。
国際電話をかけて、通話してる間に電話に付いているタイプライターで文字を打つと、向こうにそれが流れる機械で、当時はすごく高価だったんだ。
でも、自分達で輸入貿易をするのであれば、必要だ!って言って買ってね。
3分で4320円もしたんだよ(笑)
ーー高いッ!!でも、そこまで、本気で輸入代理店業を始めるぞ!という心意気でもあったんですね。
その後、TENBAは体制も変わって、商品も変わって、日本での状況も変わり手放してしまったんだけどね。 そういう流れが、銀一の輸入代理店業の基盤になってるんじゃないかな。
ーー少し話は戻ってしまいますが、ドライマウント事業のための『株式会社ギンイチ』の前に、レンタル事業の『株式会社ライク』を立ち上げていますよね? これはどういった経緯だったのでしょうか?
私がね、写真が好きで、4x5のカメラで作品を撮っていたこともあって、個人で大判レンズをたくさん持っていたんだよ。
シュナイダーのスーパーアンギュロン※7とか、ローデンシュトック※8とかね。
僕はカメラ屋だったからある程度安く手に入ったけど、
どれも当時のカメラマンの月給の何倍もする値段だったから、やっぱりカメラマンはそう簡単には買えないじゃない。
だから、知り合いのカメラマン達に貸してたんだ。もちろん無料でね。
でも、それじゃ悪いからって、お金を置いてくカメラマンが出てきてね。
それだと単純に、僕のポケットマネーが増えてっちゃうだけだから。
だったらちゃんと事業にしようか、って始めたのがライクなんだ。
※7 スーパーアンギュロン
1958年に誕生した、シュナイダー・クロイツナッハの広角レンズブランド
※8 ローデンシュトック
1877年創業ドイツのレンズメーカー
(当時の株式会社ライク店内)