*時代の流れと共に変わる『銀一』
このブログを書いている筆者がカメラに関心を持った頃は、既にデジタル写真が台頭している時代でした。
しかし、そんな私が想像しただけでも、写真の歴史と共に、カメラ業界を取り巻く環境は、
創業からの65年ですごく変わってきたのではないかと思います。
そこで、時代の変化についても伺ってみました。
ーー『写真の時代が変わったな。』と思った瞬間はいつでしたか?
これは、かなり色々なタイミングがあるねぇ。
まずは、経営者として一番最初に変わったと思ったのは
和文タイプライターから、ワープロに変わった瞬間は、世界が変わった!!と思ったね。
写真でいうと、白黒フィルムから始まって、カラーになって、そしてデジタルになって。
ーーデジタルになった瞬間は、もう終わりかな。と思う瞬間もあったとか。
ここまで話してきた通り、
最初に銀座一丁目でお店を立ち上げてからここまで、
プロの話を聞いて、困ってることや要望を聞いて、それに応えるようにお店を続けてきた。
それは、銀一の大きなアドバンテージだったんだよ。
でも、デジタルになって
銀一に来てくれるカメラマン達も、自分たちも、みんなゼロから、
同じスタートラインになってしまった!!
これは、すごく危機感を感じたね。
当時コダックがデスクトップパブリッシングシステムを発売してね。
スキャナーが1台150万円ぐらいして、システムで揃えると1000万円していたと思うのだけれど
フィルムをスキャンしてデジタル化する技術で、デジタル時代に対応するような時代もあったんだけど、それも数年で陳腐化してね。
そんな中で、その頃入社した若い社員が独自に色々勉強して、カメラマンに伝えて。
そうやって銀一だからこそのデジタル技術が積み上がっていったんだ。
そして、撮影の入力から出力まで、オールマイティにこなせる銀一ができた。
本当に彼には感謝だよ。
(デジタル黎明期から銀一を支えたスタッフ森さん)
ーーまだ誰にもわからない技術を学ぶのは、すごい気力と、努力が必要ですよね。
そのあとは、写真から動画に移り変わる瞬間かな。
これは今も続いているのかもしれないけれどもね。
昔、映画用の8mmフィルムがすごく流行って、各カメラメーカーがこぞって発売した時期があったんだ。
でも、その時は銀一はやってなくてね。
だから、キヤノンのEOS 5Dで動画が撮れる!となった時も、どうなることか。と思ったよ。
でも、その当時入社してくれた社員が
前にいた会社から、入社と一緒に連れてきてくれたブランドがローウェルでね。
当時、動画用の照明といえば、すごく高価で大きくて...という中
コンパクトで、導入のしやすいローウェルがあったことで、銀一も動画業界の中に入っていくことができたんだ。
ーー銀一の歴史でいうと、2009年月島に、それまで会社としても分かれていたセットショップと銀一を統合した銀一スタジオショップができたのも一つの転換期だったのではないでしょうか?
(スタジオショップと統合前、東京都中央区入船に店舗を構えていたセットショップ外観)
もともとは、ニューヨークのセットショップを
先代が見に行った時に、「これだ!」と思ったみたいなんだよね。
今まで銀一は
カメラ側、撮影者側に求められるものばかりを取り扱っていたけれども
セットショップには、撮られる側、被写体側のものがたくさんあり
これを掛け合わせることで、カメラマンにとって全てが揃う!とピンときたみたい。
ーー確かに。改めて考えると、カメラなど撮る側の商品と、
背景紙はもちろん、フェイクの氷など、今となっては被写体側に当たり前にあるものも、アイディア一つですね。
セットショップも別会社だったけど
他にも、銀一ラボってあったのは知ってる?
ーーすみません!知らないです!!銀一ラボ?
アグファ※9のフィルムは知っているよね?
当時アグファの代理店をしていた会社が、アグファのフィルムと印画紙の取り扱いをやめる。という話になってね。
そこで、銀一が機材を始め、アグファのラボにあったものをすべて買い取って
社内にラボを作ったんだ。
※9 アグファ
1867年創業のドイツ老舗フィルムメーカー。現在は3i株式会社が正規総輸入代理店
ーー全然知らなかったです。知らない歴史がたくさん出てきますね(笑)
それで言うと、ディアドルフについては知っている?
ーーもちろん知っています。銀一の紙袋にもディアドルフが描かれていますから。
実は、うち、ディアドルフ※10だったんだよ。
ーーえ?販売店ではなく、銀一がディアドルフってことですか?
そう。
元々ディアドルフは、アメリカの会社でね。
知っての通り、4x5判や8x10判、16x20判などのカメラを作っていたカメラメーカーで、銀一も販売していたんだけど、生産をやめてしまって。
そこで、銀一がメーカーを買い取ったんだ。
だから、銀一がディアドルフを持っていた。というのが正しいのだけどね。
でも、うちにはカメラを作るノウハウはないから、駒村商会さんと一緒にアメリカに工場をもう一度作って始めたんだけど、すぐにやめちゃってね...
正直、商売としては損の方が大きかったけど、ディアドルフは先代の夢でもあったんだ。
※10 ディアドルフ
アメリカのイリノイ州シカゴにかつてあったカメラメーカーである。
創業者のラバーン・F・ディアドルフが、1923年から手作りで木製暗箱型カメラの製造を始めた。抜群の堅ろう性を有し、精巧かつ優美に作られており、木製大判カメラの最高峰として現在もプロアマ問わず写真家達に絶賛されている。wikipediaより
(当時のカタログと、限定のディアドルフが描かれたキーホルダー)
(現在の銀一ショッパーにも描かれるディアドルフ)
ーー最近の転機としては、今日このインタビューをさせていただいている、銀一本社ビルの4Fに構える『CO-COフォトサロン』のオープンかと思います。
こちらの立ち上げに関しては、会長の思いも強かったと聞いています。
どういった経緯があったのでしょうか?
もともと、ここでは『CO-COカメラサロン』をやっていたね。
ライカやローライといったクラシックカメラや、フォコマートなどの中古を多く販売してきたんだけど、
なかなかスタッフの高齢化もあったりで、もう閉じてしまおうかと思ったときに
貴重な専門知識や、アフターサービス・パーツなどを手放してしまうのは、よくないと思ったんだ。
なので、なんとかこの場所を残す形として、ギャラリーとして活用することを思いついた。
きっかけは、今の『CO-COフォトサロン』の担当者から、今はギャラリーが減っていて、作品を発表する場が少なくなっているという話を聞いた事や、ギャラリーから繋がるコミュニケーションの場を提供したいという思いに共感した部分もあるけど、
先代の思いもあったんだよ。
実は銀一は、過去にもギャラリーをやっていたことがあるのは知ってるかな?
ーー全然知らなかったです!!そうなんですか?!
六本木に、アクシスビルという今もあるビルがあるんだけど
そこに、スタジオを作った会社さんがあってね。
スタジオがあるなら、プロショップも必要だろう。ということで、GIN-ICHI 2号店を作ったんだよ。
そんな時に、ビルに空き部屋があるから
ギャラリーをやらないか。という話になり、『ギャラリーワイド』というギャラリーを作ったんだ。
でも、当時は会社に余裕がなくてね。
数年で閉めてしまったんだ。
だからこそ、このCO-COフォトサロンの話が出た時、先代ならやりたい。と言うだろうな。と思って後押しをしたんだ。
でも、こうやって時を経て、ギャラリーをやってみると
いままでのお客さんとはまた違った出会いもたくさんあり、いい場所になったね。
(CO-COフォトサロンの柿落としとなる展示は、会長のライフワークの一つである、カンボジア、アンコール・ワットの作品を展示した。)
*商売とは何か。銀一を続けてくる上で大切にしてきたこと。
ここまでは、会長から見た銀一の歴史を伺ってきましたが
最後に少しパーソナルな部分の質問をしてみました。
ーー会長は長年、たくさんのカメラマンの近くで過ごされてきていると思いますが、印象に残っている方との思い出はありますか?
秋山 庄太郎さんは、知っているかな?
日本広告写真家協会名誉会長を始め、日本の広告写真の礎を築いてきたカメラマンさんだけど
毎週の様に注文をくれてね。
何回フィルムを届けたかわかんないなぁ。
あと思い出深いのは、大竹省二さんかなぁ。
さっきの秋山さんとかと同じく、ポートレート広告などで活躍されたカメラマンさんだけどね。
札幌に一緒に撮影旅行に行ったことがあって。
朝からステーキ食べていてびっくりしたなぁ(笑)。
このあたりのカメラマンさんが、私の中ではカメラマンさんの第1世代でね。
そのカメラマンさんのアシスタントなんかで、うちにしょっちゅう出入りしてた人が、
その後有名なカメラマンさんになっていくんだけど
例えば、立木 義浩さんのアシスタントさんは、お使いで週1回はお店にきてたんじゃないかなぁ。
あとは、篠山紀信さんのアシスタントさんとかね。
このあたりの先生たちが、私の中では第2世代だね。
でも、もうさらにその当時のアシスタントさんたちが、みんな第一線のカメラマンさんとして活躍されている時代だもんね。
(2023年3月にCO-COフォトサロンで個展を開催された岡嶋和幸さんと会長。個展『房総ランド』ギャラリー内にて。
岡嶋さんがアシスタントをされていた沼田 早苗さんは、大竹省二さんのアシスタントをされていた。)
ーーちょっと趣向が変わりますが、会長が今までで一番愛用したカメラは何でしょうか?
Nikon F90※11だね。
というのも、内蔵の露出計がすごく精度がよくてね...
露出計代わりに使ってたんだ。笑
長年、自分の作品は大判で撮っていて、撮影旅行にいく時などは、
4x5を 50枚
ブローニーを50本
35mmを20本ぐらい持って行っていたんだ。
クラウングラフィック※12を持っていくことも多かったな。
あとは、リンホフの612※13もよく使っていたね。
パノラマで撮れるから、風景を撮影するときは、すごくよかったんだ。
※11 Nikon F90
被写体までの距離情報を用いる「3D測光」が初めて採用され、より測光精度が向上したモデル。専用コードで電子手帳と接続することによりカスタムセッティングの設定や撮影データの保存が可能(後にPCリンクキットも登場)。世界24地域の現地時間・夏時間に対応したデータバックも用意されており、本格的かつ高度に電子化されたパイオニア的モデルであった。wikipediaより
※12 クラウングラフィック
1947年に発売されたグラフレックス社の4×5カメラ。フォーカルプレーンシャッターがなくなり小型軽量化されたモデルとして人気があった。
※13 リンホフテクノラマ612PCⅡ
パースペクティブをコントロールするためにレンズ・プレライズされたレンズを使用した縦横比1:2のパノラマ画面を実現したラージフォーマットカメラ。リンホフ日本総代理店:有限会社フォトオフィス・クリック HPより
ーーありがとうございました。最後の質問をさせてください。
銀一は創業65年。創業したその日から今日まで銀一と過ごしてきた会長ですが、いままで銀一を続けてくる上で大切にしてきたことはなんですか?
相手を大切にすることだね。
お客様は神様なんていうけど、
私は、
お客様もだけど、取引先も、一緒に働く従業員も、本国メーカーの人も、みんなそれぞれ、誠心誠意対応する。誰に対しても嘘をつかない。
こうすることで、自然と信頼がついてくると思ってるよ。
例えばね、
銀一カメラ始めた当初、フィルムをパトローネに巻いて販売してたという話をしたけれども
どうしても手巻きで入れるから、ほこりが入ってしまったり、傷がついてしまったりするんだよ。
でも、それを正直に説明して、理解し納得した上で買ってくれる。それがお客様だと思ってる。
経営の話でいえば、海外から仕入れて支払いをする時に
必ず遅れない様にすること。当たり前のことだけど、長く会社をやっていると、どうしても予定通りにいかないことは出てくる。
その時に、嘘をつかず、途中経過をしっかり連絡して、対応することが大事でね。
だからこそ、海外のカメラアクセサリーメーカーからも、信頼してもらえてるんだと思うよ。
ーー単純なことだけど、とても大切なことですね。先代も、会長も、銀一を始める前に、別の会社で働いていた経験があると思いますが、なにか活きている部分はありますか?
もちろん、高校で学んだ技術的なことなども、
写真の世界で生きることはたくさんあったよ。
でも、創業当初昭和33年4月。
先代は26歳。私は20歳。
もとの会社には2年ぐらいしかいなくて、すごく短い経験だったけど
そこで教えられた言葉は、すごく大事にしていてね。
『適正利潤は、社会奉仕の結果である。』
適正に利益を出すことは、社会を回す上で、すごく重要なことで
利益を出すことで、従業員に給料を支払い、消費が起こり、また違う社会の利益になる。
これも、当たり前のことではあるんだけど、経営者としても、社会の一員としても、
ずっと自分を支えてきてくれた言葉だね。
あと、これは高校の時に、技術を学んだ際よく言われていた言葉だけど
『良い道具は、良い仕事を。』
これも、カメラという仕事道具を販売する上では、すごく大事にしている言葉だね。
ーー最後にこれからの時代を担っていく若手の銀一スタッフや、若手のカメラマンさんに伝えたいメッセージがあれば、教えてください。
さっきも伝えたけれど、商売の基本は、
お客様のため、仕入先取引先、一緒に働く仲間など、みんなに対して誠心誠意対応する姿勢は、お互いに必要だと思う。
それを全力ですれば、おのずとみんなでハッピーになれるタイミングはくると思うんだ。
これは、スタッフにも、これからの未来を引っ張っていくカメラマンにも、覚えておいて欲しいね。
いかがでしょうか?
今回は、弊社の会長からみた、銀一と写真業界のお話を聞いてみました。
もちろん同じ会社で、同じ時を過ごしている中でも
筆者の何倍も長く、この業界にいることで、見方も、感じ方も違うのだな。と感じましたし
私の知らない銀一や写真業界の話も聞けてとても楽しかったです!
脈々と受け継がれる歴史を、これからも銀一は
新たなみなさまと一緒に歩んでいけたらと思います!!
スタッフブログ100回記念にお付き合いいただきありがとうございました。